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創立者 尾崎清光について

先代尾崎清光は高知県高岡郡佐川町の被差別部落に生まれた。大阪市内で金融・手形割引や不動産会社を営むうち、1970年頃、元法務大臣故西郷吉之助氏の秘書らと知りあい、色々と仕事を請け負った後に故西郷氏の私設秘書となった。故西郷氏による5億円近く乱発された手形回収を任されたが、各業者への強引な回収方法によって、同年頃に兵庫県警に脅迫で逮捕される事態となった。

これを機にして故郷佐川町に帰り、建設会社を設立。農地転用許可や国有地払い下げにも力をいれ、高知県内の政財界や行政に精力的に働きかけ、自らも建築や土木、砂利採取等の関連事業を営んで公共事業や大手企業の下請けを一手に引き受け、「土佐の黒幕」と呼ばれるようになった。

自民党員として1972年の佐川町長選挙では自民党推薦の渡辺勉氏を応援し、同氏当選後は勝共連合を使ってビラや街宣車で反共活動を行い、部落解放同盟正常化全国連絡会議の支部幹部らの活動を抑制した。

1978年に上京。全日本同和会に所属し、最高顧問の地位にあったが、内紛が起こったことを機に脱会し同年、自ら日本同和清光会を設立した。
同和団体幹部としての地位や、これまで培った政財界や様々な業界との交遊関係を駆使して行政に働きかけ、市街化調整区域など通常は開発許可が下りない土地の許可をも取得して開発業者に斡旋。地上げの帝王と言われた最上恒産会長故早坂太吉とは家族同然であり、スポンサーでもあった。

1979年、同和問題以外にも様々な案件が持ち込まれることもあり、行政機関を唯一言及出来る政治団体として日清会を新たに設立し、自らが初代代表職を務めるとともに、今までの右翼活動を一切せず、行政を正すことだけを目的とした活動を始める。

故尾崎清光は「歩く三億円」とも呼ばれており、大物芸能人や角界とも深い交流があり、その関係から何人ものスポンサー役を務めながら、自らも芸能プロダクションを設立し会長職を務めていた。また、政界では自民党の故中川一郎氏、故武藤嘉文氏、故玉置和郎氏、現たちあがれ日本代表平沼赳夫氏らとも交流があった。しかし1984年、東京女子医大病院に入院中、何者かに殺害され、この世を去った。犯人は逮捕されておらず、残念なことに未解決事件のまま時効を迎えることとなる。

故尾崎清光が当時最大派閥の長であった故田中角栄氏ですら力添えを乞うほどの権力者であったことを物語る逸話の1つに、ホテルオークラで開催された誕生パーティに、自民党代議士はもとより政財界人等1000名以上が訪れ、そのうち150名までが中央官庁事務次官等の上級官僚であり、同じ日に別ホテルで行われた故田中角栄氏主催のパーティには僅か8人しか役人参加はなかった。
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